猫な存在論(cat2)ー 猫は「 ケモノ」として存在している?

猫は、あきらかに「毛織物」ではないが、「毛物」でおおわれた存在である。

そう、そうしてこの時期、その「毛物」のなかに「ノミ」といわれる吸血虫を寄生させながら、猫は、ニンゲンの家にうまく住み着いて、存在している。お陰で、いま、クマゴローの家には3匹の猫のみならず、星の数ほどの「ノミ」がいわゆる「住み込み」を決め込んでいる。
(「痒い!」と、おなじ「ネコ目」でもあるらしいクマ科のクマは、この悲鳴のようなコトバを発することがあるのだろうか?クマの研究者に訊いてみたい。)

だが、とクマゴローはなにを思い出したのか、羆(ヒグマ)のように立ち上がる。
猫の「ケモノ」は、「毛物」だけでは、ない!
猫の鋭い歯や爪を見ればわかるように、猫は、「獣」(ケモノ)としても存在しているのだ。

ノンやロンやランが、クマゴローの野菜畑や草むらや石垣などを探検して、毎日のように捕まえてくる生き物がいるのを、みなさんはご存知だろうか?
(もちろん、猫好きのみなさんには、ご存知どころか、当たり前過ぎて、わざわざ?の話かもしれない・・・)

そう、ト・カ・ゲ、だ。トカゲは可哀想に、この猫たちに捕まると必ずといってよいほど、なぜかニンゲンが寝泊まりする部屋のなかに連れて来られる。ニンゲンへのデモンストレーションなのか、見せびらかしにされ、いたぶられ、食べられもせず、有り難がられずもせず、あげくの果ては放置され、干涸びてミイラになる。
むろんその前に、トカゲはみずから「尻尾切り」をすることで、せめてもの自尊心を主張してはいる。それは、ある時代の、どこかの国の「サムライ」と呼ばれていたニンゲンとおんなじ気持ちのようだ。
トカゲにも「一分」の魂はあるらしい。(それはそうだろう。彼(彼女)らは、われわれ(ネコやクマやニンゲンなどの)哺乳類よりも、この地球上でずっと長く生きている爬虫類の一族なのだ。プライドがあって、当たり前だろう!)

ところで、猫が「ケモノ」だということは、「ネコ」という音に、中国の漢の文字がネコの首に鈴でもつけるように、いかにも意味ありげにつけられていることからも分かる。
この時代の中国では、猫は「獣」、つまりは「食肉目」の生き物として、あの「狸」(イヌ科)と同族の動物だと思われていたようだ。(猫はネコ科、当たり前!、というのは今日の知識。)
その「狸」と同族であると間違って思い込まれた猫が、田畑の作物の「苗」を食い荒らす野鼠を捕まえてくれるということから有り難がられ、敬意を込めて?「豸」(ムジナ)ヘンに「苗」という文字が添えられた、というまことしやかな説(?1)も、在るのではある。

はっきりしていることは、猫は「ネズミ」あっての「ネコ」だということだ。(このことについては、そのうち、その歴史的事実が詳細にあきらかにされる日がくるであろう。)

「存在者」と「存在」は、厳密に区別されて考察されなければならない、というのは、ドイツのかの大哲学者、ハイデッガー先生のご高説(?2)ではありますが、ニンゲンは自分が関心する存在者には「名前」という徴(しるし)のようなものをつけたがる性癖があるようだ。(この性癖が、ニンゲンの「徴(しるし)」でもありますね。)

とりあえず、ある日、ある国で、「ネコ」は「猫」というりっぱな「名前」をつけられることによって、その「存在」が「存在者」として「認識」(最近流行のコトバで言えば、「認知」)されたのである。

(?1): 戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ』(中公新書 P89)
(?2): マルティン・ハイデッガー存在と時間』(ちくま学芸文庫 「序論 第1章」)