猫な存在論(cat1)ー 猫は「ネコ目」として存在している?

ワタクシの家に、猫が3匹、「ネコ目」という共通の「目」を戴きながら、それぞれ異なる性格をもった生き物として存在している。

1匹目の猫は、「ノン」という。
残り2匹の親猫で、クマゴロー(ワタクシのこと)が広島の「黄金山」という新天地(実際はカミサンの親が住んでいた家)に蕎麦屋を移転する準備をしてる頃、もともとその家の庭の小道が猫族の通り道になっていたことから、会うべくして出会った猫のひとり(一匹?)だ。
「なかなか気品のある猫だなー」というのが、クマゴローとカミサンの一致した意見だった。
それで、「自然にここに居着いてくれるなら、飼ってもいいね」と言いながら、えさをやっていた。
「だいぶなついてきたかな?」という頃、ノンが家の中に入って来たので入れてやり、なんとなく入って来た戸を閉めたところ、ノンはどうしたことか、出口を求めて大パニックになり、鳴きながら右往左往して必死になってかけずりまわっていた。ノンが、出口を閉めたクマゴローをうさん臭い目で見、えさをもらう時以外はなんとなく警戒している風情でいるのはそれからだ。(そのときのクマゴローに、なんの悪気もないことは、みなさん周知の事実なのではありますが・・・)

2匹目の猫は、「ロン」という。
顔つきはどこかネコ族の仲間であるライオン族の眼をしていて、一見凛々しいのだが、クマゴローに対しては、ノン以上に警戒心を抱いており、恐れてもいる。家の中で、ごろんと気持ち良さそうに寝ていても、クマゴローが入って来ると、いまにも捕って食われそうな顔をして、そそくさと出て行ってしまう。
「なんでオレはこんなに嫌われているのだ?」ということついては、クマゴローじしんに思い当たるフシがある。
ロンが、クマゴローが思いつきで植えていた野菜畑(ナスやピーマンやトマトなどを植えていた)に入り込んで、あろうことか、小の用を気持ちよさそうにしていたところ、「ネコの小便=もう臭くて我慢のならない臭い」という単純な方程式にアタマを占領されたクマゴローが、ロンを軽い脅しのつもりで追いかけ回したことが、それだ。
クマゴローは、ほんのちょっと脅したつもりであったが、ロンにしてみれば、命がけの出来事だったのであろう。猫のアダルト・チルドレンというか、すっかりトラウマを刻み込んでしまったという感じで、以来クマゴローには心を許してはいない。(このときもクマゴローは、そんなに目くじら立てて脅したつもりではなかったのだけど・・・)

3匹目の猫は、「ラン」という。
ロンと性格は真反対で、恐れるものを知らない。というか、「恐れる」という心の有り様(クマゴローは猫にも「心」があると思っている)を知らない風なのだ。もちろん、ランがニンゲンにとって(ほとんどは、クマゴローにとって)なにか悪いことをすると軽く叩いたり、追いかけたりするのだが、それで別にロンのように、トラウマになるわけでもない。「トラウマ」ということに関しては、「ノン」と「ロン」と「ラン」のクマゴローに対する反応および態度を緻密に比較考量することで、「比較トラウマ学」という新しい学問の道が開かれるかもしれない・・・
それはさておき、いつもトボケたような目つきをしているランの出自は、あの「ライオン族」とおなじ「ネコ科」にあるのではなく、なにか別の「ヒトを食ったような科」(よくわからないので、こんな風に言っておきます)に所属するように思えてならない。
特にその声が、つまりは、「にゃ〜にゃ〜」(源氏物語の頃は「ネウネウ」)という鳴き声が「にゃ〜と鳴く子」(ネウと鳴くコ)ー「にゃん子」(ニャンコ)ー「にぇ子」(ネウコ)ー「ねこ」(ネコ)という風に、鳴き声由来のことばがどんどん転化していって「ネコ」という名前になったのだ、というかなり有力な学説(?1)があるにもかかわらず、「わおわお」とか「うえっうえっ」とか、ホントは表記不能なだみ声で、しかも毎朝枕元で鳴くものだから、うるさくてかなわず、目覚まし時計以上に目が醒めてしまう。
が、しかし、ランは天性のどうしようもなく憎めない可愛さをもっている猫だ。

(?1):戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ』(中公新書 P91)

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以上、今現在、クマゴローの家に居着いて存在する猫はこの3匹の猫たちなのですが、クマゴローやクマゴローの家族(カミサンと息子一人)の心には、今は亡き初代の「ミンカ」と、ある日ぷいと家を出てしまった(のかどうか、未だによくわからない)「みん」という猫が存在しています。
この2匹の猫のことについて語り出すととても長くなるので、これから折に触れて登場してもらうことにして、今回はこの3匹の猫の存在の有り様の一端について記しておきます。